私の阪神・淡路大震災体験記

体験談

今日で阪神大震災から24年。

当時まだ幼かった私ですが、体験談を書いてみます。

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阪神淡路大震災体験記

 

当時、私はまだ小学校の低学年でした。かなり前のことで記憶が曖昧な所もあるかもしれませんが、記録として残しておきます。

 

地震があった日

私が当時住んでいたのは「兵庫県伊丹市」。大阪空港のある場所です。

阪神大震災では、「阪急伊丹駅」の1階がつぶれた映像が随分TVで流れました。

 

地震があったのは95年1月17日5時46分。

私は強い揺れで目が覚めました。

当時住んでいたのは、アパート。古くて狭い建物で、3Kの1室で寝ていました。

寝室には私や弟の勉強机や本棚等を置いてありましたが、たまたま倒れては来ませんでした。

ですが、隣の部屋では箪笥や本棚が全て倒れ、キッチンでは食器棚が全て倒れ、部屋の床は食器が散乱。

初めての体験で、揺れは長くも短くも感じました。その時は現実感がなかったです。

 

私の父は警察官。こんな日こそ出勤の必要があったので、私とまだ幼い弟を残して震災当日から仕事へ出勤しました。当然電車は動いていないので、自転車です。そして、その後あまり帰ってこなかった気がします。

父は大変だったと思いますが、母になった今思うと母も大変ですよね。小学生と幼稚園の子供2人抱え、部屋の後片付け。1月なので寒いし、余震も何度もありました。怖かった…。

決して新しいマンションではなく、古いアパートだったので倒壊も怖かったと思います。(建物にヒビが入りました)

食料を手に入れるのも大変だったみたい。

 

テレビは震災のことをずっとやっていたみたいですが、当然こちらでは映りません。ネットもなかったし、当日は状況があまりよくわかりませんでした。

 

水がない生活

電気は比較的早く普及したと思います。

そんな中、一番大変だったのは、「水」です。私の住んでいたアパートは4階建てで、私の家は4階でした。

給水車は来るのですが、当然部屋まで水を持ってきてもらえたりはしません。

近所に来る給水車に水を貰いに行き、それを4階まで階段で運ぶのが大変だったこと、今でも覚えています。

わが家の場合は、父もあまりいなかったので余計です。

お風呂は銭湯に通っていました。水が1カ月位は出なかったでしょうか。

 

学校再開

弟の幼稚園は私立だったためか、長く休みになったので弟はおばあちゃんの家に預けられました。

小学校は数日後から再開。

通学路には特に何もなかった(覚えていないだけかも)ですが、小学校は一部の部屋が避難所になっていて、学校に人がいたのを覚えています。

 

震災の爪痕

上で書いたように、私の住んでいた「伊丹市」では「阪急伊丹駅」の1階がつぶれた映像が当時何度も映像に出ていました。

私もよく利用していた伊丹駅。よく行った駅前のデパート。全て、入れなくなりました。

その後も習い事でずっと通っていた伊丹駅。長く工事をしていました。

 

幸い私の知り合いは命は無事でしたが、怪我をした友達はいました。

父は同僚や知り合いを亡くしています。

 

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大学が神戸だったので神戸の知り合いは沢山いますが、誰もが阪神大震災で家が被災したり、知り合いを亡くしたり、と傷を持っています。そして117を大切にしています。

 

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震災から19年

気付けば震災から19年ということで…。こうして「過去の出来事」になってしまうんだなあ、と何だか悲しいです。

私の体験談は、大した被災も受けていないし、大変な体験をした人に比べたらちっぽけな物だと思いますが…。

色んな人が体験談をあげることで、「過去のこと」で終わらなければいいな、と思います。